「横浜学 ~横浜とアメリカ~」の感想 - 恰幅の良い彼のblog
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「横浜学 ~横浜とアメリカ~」の感想

関東学院大学と横浜ウォーカーのコラボ講座「横浜学」

第23回目のテーマは”横浜とアメリカ”

なんか、Tボーンステーキのように壮大なテーマだなと思っていたのですが、実際は本牧界隈のお話で、チョリソーくらいのサイズでしたね。

ジャズファンなのか?今回の会場はすごく盛況でしたよ。

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一人目の講師は関学の欧米文化論と音楽評論の先生。
お話は1960年代の音楽とゴールデンカップスについてです。

大衆音楽の歴史は20世紀初頭にアメリカから始まる。
エジソンの発明したレコードの普及をきっかけに、レコード会社が設立され、ラジオ等の放送を介して大衆に伝播していくような、今日の音楽産業のプロトタイプが形成された。なお、日本におけるレコードの歴史は昭和3年から。

かつての横浜には”フェンス越しのアメリカ”と呼ばれた進駐軍の施設があり、軍全体の1/4にあたる大人数が駐留していた。彼らが夜の街を通して本場の音楽を直に伝えた。

美空ひばりや江利チエミなどは米軍向けラジオを通じて洋楽に触れ、PXは最新レコードや雑誌の調達場所になっていた。また、逗子や鎌倉はオフリミット地区として、米軍の保養所となり、後にサーフィンなどの文化を残した。

音楽の背景として横浜はビートルズを産んだリバプールと同じ港町であったことが挙げられる。かつての奴隷貿易と同様に、進駐軍を通して黒人文化に触れた街であったことが土壌となっている。

グループサウンズの源流もアメリカといえる。
まず進駐軍がもたらしたジャズが流行り、カバーポップスやエレキを経て、GSにつながっていく。GSはロックのリズム、歌謡曲のメロディ、そして来日したビートルズに影響されたアイドル性を擁するものだった。

本牧のバーから生まれたゴールデンカップスはGSのグループであったが、ライブなどでは「長い髪の少女」のような商業的なヒット曲を歌わず、本場の最先端のロックやR&Bを演奏した。「長い髪の少女」のB面「ジズ・バッド・ガール」などを聞けば分かるが、バンドの本質はそっちにあった。

先生曰く、歳を重ねると、当時馬鹿にしていたGSがすごく染みてくる。様々な音楽経験を経て、やっと分かるものがあるとのこと。それは絶対ノスタルジーだと思います!老人が童謡に回帰する感じの!

また、途中で当時を振り返るドキュメンタリーの一部を観たのですが、ちょうどベトナム戦時下だったこともあって、本牧界隈のナイトシーンは我々が想像するよりもずっとビリビリしたもんだったようですよ。”怖い”とか”荒々しい”とか”異様”というような単語が出ていたもんな。また、60年代の横浜は東京よりも遥かにオシャレで、流行の最先端として強烈なイメージを残したのだそうな。

つっても、今は不良ジジィくらいしか残ってないけどね!

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二人目の講師は東京音大の教授。
プログレロックのキーボードプレイヤーでもあるようです。
お話は日本のジャズシーンについて。

大正時代、米国と日本を行き来する多くの客船に専属の楽団が置かれ、彼らが現地の音楽を持って帰った。これがジャズの黎明。

当時のジャズはアドリブなしのダンスミュージック的なものであった。大正10年には花月園ダンスホールで座付きのハタノ・オーケストラによる演奏が始まる。本牧や山手あたりには”チョップハウス”が語源とされる”チャブ屋”が点在。表向きはダンスホールとして、実体は娼館として営業していた。

大正14年には伊勢佐木町の喜楽座(日活のあった場所)にて、米国巡業を成功させた奇術師の松旭斎天勝が現地のジャズ奏者を引き連れ凱旋公演。音楽と演芸、寸劇を組み合わせたこの公演スタイルは、後のボーイズ芸やコミックバンドの源流となったのではないか。

昭和になるとスイングジャズが流行して、昭和8年の「ちぐさ」などのジャズ喫茶がオープン。

戦中は敵性音楽とされ鳴りを潜めたジャズであったが、戦後はOCやEMなど米軍施設の娯楽として、日本の軍楽隊のOB等が派遣され演奏した。また、本国から兵士慰問用に送られたVディスクを通じて、日本の奏者やファンにも流行が伝わっていく。クランベ―ク(焼はまぐり→横浜)やCB9等、日本人の本格ジャズバンドも生まれ、黒人クラブなどの厳しい聴衆を相手に人気を博した。

朝鮮戦争を経て、主に米兵向けだったジャズは、日本人向けにもシフトしていく。その後、ロカビリー、ポップス、カントリーなどの流行を経て、GSにつながっていく。

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三人目の講師はDJのロバート・ハリスさん。
若い頃、界隈でやんちゃしたお話でした。

日英ハーフで12歳から21歳まで横浜で暮らす。
通っていたセント・ジョセフは宗教色の強い変な学校だった。

様々な国籍の生徒が学ぶインターナショナルスクールを基本として、遊び歩いていた当時の伊勢佐木町などに溢れる日本の大衆文化が交じるカオス、ちゃんぽんの環境のおかげで、その後の世界放浪を何の違和感もなく過ごせた。

当時、中華街はお店の半分はGI相手のバーで、今とは様相が違っていた。

その他、いろいろ個人的な逸話があったんだけど、書き起こしづらいかな。詳しくは自伝を読んでねって感じ。先段の本牧ドキュメンタリーに出てくるような遊び人はだいたいリア友ですってノリで、おそらく、世代を共有する人にはたまらん昔話だったのではないかな。

なお、次回は「横浜とみどり」だそうです。
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